自己認識と他者配慮

自分が思い描く像と他人が描く像。大抵大きく違う。そのことが稀にコミュニケーションの障害になることもあるような気がしている。

わかりやすい例だと、たとえば会社で「年齢10歳以上離れてるし...」「あの人はベテラン社員だから...」などといった理由で何かしらの見えない壁ができてしまうことであったり、話しかけづらい空気感になってしまうことも多い。

というのも、他人が自分自身を見た時にまずはその人のポジションだったり年齢といったわかりやすいものを意識するのは当然であったりするし、そういったところから入るのが正直多くの割合があったりするのではないかと思う。

自己認識を進めることでそういった部分を多少解決できるのではないかとおもう。

  • いま自分が与えられたポジション(職務、役職)はそもそも何を求められてなっているのか
  • 他人の立場になったときに今の自分を見た時、どの様に見えているだろうか

自分自身の認識を進めることで結果、自分以外の人の配慮にも繋がることもある。話しやすい空気感、場の空気、そして自分以外の人への影響。それが結果としてよいコミュニケーションに繋がるのではないかと思う。

と、こういったことを書いていてしばらく下書きで放置していた。

というのも他者から見える自分というのは人の数だけ異なるわけで一方一人の人間は唯一であるから、"自己認識" というキーワードを考えた時に、それでは唯一の自己を取り巻く家族、職場の人、友達 etc... で見え方は皆異なるわけでここをどの様に解釈するのがよいだろうかと考えていた。

そこで昨日読んだ 私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書) を読んだときに自己は唯一であると考えずに逆に複数の "分人" で構成されると考え、

一人の人間には、色々な顔がある。つまり、複数の分人を抱えている。そのすべてが〈本当の自分〉であり、人間の個性とは、その複数の分人の構成比率のことである。

という記述があり、この考え方で大分合点が通ったところがある。自己認識=自分が持つ分人それぞれに対する理解。と考えればよいのではないかと。

自分を構成する分人をそれぞれ理解する(=自己認識)を進めることで、その分人と接する相手*1に対する配慮(=よりよいコミュニケーション)が図れる様になる気がした。

このあたりの考え方がもっと詰められると良さそうな気がしているのでもっと詰めてみたい。

*1:これもまたその人を構成する複数の分人のうちの1つになるわけであるが